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父が他界したのは私が24歳の時。
大酒飲みで肝機能が低下し、肝炎・肝臓がんからの食道がんが死因だ。
父はとっても変った人で、一番の違いは全身に入れ墨があることだった。
そのため、夏でも長袖の下着が欠かせず、温泉やスーパー銭湯へ行けないとよく嘆いていた。
私が生まれた頃には既に、父には入れ墨があった。
だから逆に不思議にも思わなかった。
父は酒に酔い、よく私に話した。
「東京にいた頃はヤクザだったのだ」と。
私が記憶している父のいちばん長い職業は、普通に会社員だ。
幼少の頃はよく覚えていないが、確かに家に居なかった気がする。
バーテンダーやクラブの雇われ支配人など、夜の世界で生きていたらしい。
そのため、兄が私の面倒をみていたのだと思う。
小学生の中学年のころも、よく兄と一緒に深夜番組をみていたので、父はやっぱりあんまり家に居なかったのだろう。
父がよく家にいるようになったのは、小学校の高学年になってからだ。
冠婚葬祭業の地元ではまあまあ有名な会社に勤め始めた。
というのも“アニキ”と慕う人物に騙されて、大きな借金をこさえてしまい、真っ当に生きようと思ったのだろう。
父には虚言癖がある。
兄はよく話してくれた。
私が生まれる前。兄がまだ小学校に上がる前の幼い頃の話だ。
突然、父に両肩を掴まれ、「パパは癌だから、あと2年で死ぬ」と言ったらしい。
しかしその3年後くらいに私が生まれ、24歳に父を亡くしているので、この癌宣言は虚言だ。
そんなわけで常日頃うそぶいており、何を真に受けていいのかさっぱり分らなかったのだが、昔話はよくした。
・新潟の山奥に本家があって、もともと武家の血筋で、本来家を継ぐはずだったが、母が芸子上がりで親戚からの風当たりが強く縁を切って上京した
・祖父はロシア人でクオーターである
・東京ではヤクザだった
・関西人が嫌い
・日本大学経済学部を中退した
・宛もなく電車に乗り、海がきれいで茨城で途中下車し、母と出会った
・まわりの反対を押切り、駆け落ちした
「ロシア人とのクオーター」は武家の話と繋がらないし、19才で母と結婚したことを考えると大学に入ったことさえ怪しいと思っていたが、どうやら父は会社の面接でも「最終学歴:日本大学経済学部」と宣ったらしく、入社10年して嘘がばれ、会社をクビになった。
そこからの再就職は当然ながら難しく、酒に逃げ、緩やかな自殺のような選択をしたことは想像に易い。
もともとそんなに心臓に毛の生えたタイプの人ではなかったのだ。
悪くもなりきれず、ものごとを割り切れない不器用な人だったと思う。
未練がましくて、嘘ばかりで、その嘘で苦しむ悲しい人だ。
しかしどんなに嫌っても血縁と言うものは怖い。
私にも、父に似てるところはたくさんある。
顔も、性格も、ふとしたところが似ていて、怖く思う時がある。
手首から背中、両胸、太ももあたりまで。
びっしりと入れ墨に覆われていた父の身体。
だけど、一部分「お金がなくて完成できなかった」という未完な部分があった。
小学生の頃だっただろうか。
ある夜、突然割り箸の先に縫い針をたくさん括り付け、胸にある龍の絵柄の目を入れろと言われたことがある。
「どうせ怖がって躊躇するだろう」という気持ちで指示しているのが透けて見え、
ムカついたので躊躇なく刺したが、縫い針に墨汁をつけて刺したってほとんど色が入らず、うろたえたような表情の龍になった。
話が脱線した。
会社勤めをしていたとき、どんなに猛暑でも長袖の下着と長袖のシャツが欠かせなかった。
それが本当に滑稽でバカらしいと思っていた。
後悔するくらいの気持ちで一生消えない入れ墨なんか入れんなよ、と。
私も油断したら、ああなってしまうのかもと怖かった。
私も胸に小さな入れ墨を入れている。
これは、この入れ墨が自分の負担になるような人生を歩まないと決めた、暑苦しいお守りだ。
消すことができない父という存在を、自分なりに飲み込もうと思ったのかもしれない。
理不尽なことばかりの昼ドラのようなドラ親父でずいぶん反発し、非難してきたが、さすがに没してからはイヤな感情は薄れ、生ぬるい思い出として数々のバトルを思い起こす。
自分の胸の入れ墨さえ、忘れてることが多いくらいだ。
話は今年の正月に戻る。
お正月はぼんやりしてるのがいい。
幸いまだ嫁にいっていないので、なるべく実家に帰り年を越す。
元日はひたすらテレビを見て、2日は兄家族が来て、3日、4日……。
流石にヒマに感じたので、母と二人で科学博物館に行った。
旧式のプラネタリウムを見上げ、イエローナイフでみた星空がプラネタリウムを勝っていたことに驚いた。
そんな科学博物館の喫茶店で、母と休憩していたときのことだ。
とうとう、私は新潟で暮らしていた時間より、東京で暮らしている時間の方が長くなってしまった、というような話題だったかもしれない。
そこから、母が「昔、東京で働いていたことがある」というというので、改めて母の職歴を聞いてみた。
そういえば、私が知っているのは、「父と茨城(母の生まれ故郷)の喫茶店(母の職場)で出会った」ところからだ。
中学を卒業し、集団就職で川崎あたりのぬいぐるみ工場で半年ほど働いて、辞めて茨城に帰り、また上京してまた帰り……というのを繰り返したらしい。
なんでそんな半年くらいで仕事を辞めてしまったのか、仕事がいやでも東京に留まらなかったのか聞くと
「ホームシックだったのかもね〜」
と言った。
「それで職場(喫茶店)に来た父と出会って、駆け落ちして、こんなに長く新潟で暮らすなんて不思議な人生だね」
と私が言うと
「駆け落ちじゃないよ、別に」
と母が言った。
えっ!?
私は記憶していた父と母とのなれそめを話した。
父の出生については眉唾物だが、東京でヤクザなことをしていた父が、東京にいられなくなり、茨城で母に出会って、周りに反対されて、新潟に駆け落ちして来たっていうのは……。
「うそつきな男だねー。別にヤクザじゃなかった。入れ墨は茨城で入れたんだよ。」
ええええ!?
父の半生を振り返るのはこれが初めてじゃなかった。
父が亡くなった時、改めて父の半生について母に聞いたことがある。
しっかり書き留めて、ブログにも転載した。(当時はテキストサイトに載せた)
その時、母にもしっかり内容を確認してもらったはず。
……いや、今読み返して見ると確かになれそめのことや入れ墨のことには付言してない。
そうだ、当時イラストレーターとして事務所に所属しており、タレントのような売り方をしようとしていた時期だったから自粛して書かなかったんだ。(その翌々年くらいには事務所の社長と大げんかして、今の私があるわけだが)
「それに新潟行きはママがそそのかしたようなところがあって、茨城でつるんでいる悪い友達と縁を切らせたかった。その友達が掘師で。それに当時は日本海側はとても遠い所な気がしていたから、行ってみたかったんだよね」
と母。
いやびっくり。
没後13年してもまだ父の嘘にだまされてたわ。
疑いようもなく信じきってた。
でも母の話を聞いて行くと、当時(父が亡くなった時)に聞いた話しと食い違うところもあったりして、もう、何が真実なのやら。
考えるのがバカバカしくなった。
過去の真実なんてどうでも良い。
思い出に残っている記憶だけが、現在の真実だ。
今の母の頭の中にある思い出だけが事実でいい。
ああ、でも本当にビックリしちゃったよ。
うちの両親はずーっと駆け落ちだと、思っていたんだから。
それにきっとチンピラに毛が生えた程度だろうけど、父はヤクザだったのだと信じていたよ。
身近なようで全然知らない。
どうでもいいけど、無視できない。
切っても切れない血族の歴史。
もう没してしまった父のことはもちろん、母の中の記憶や母自身のことも、きっと解る日は来ないんだろうなと思った。
脳みその中のことは分らない。
だけど、家族って不思議だなぁ。
こんなに長い間、没したあとも騙しやがってあのクソ親父。
いやしかし、カタギで良かった。
動画は正月にカメラの説明を兄家族にしてる時に撮った、オチも何にもないもの。
なんでもない日常の映像だけど、家族の頭の中にインプットされている思い出は、バラバラなんだろうな。
父が他界したのは私が24歳の時。
大酒飲みで肝機能が低下し、肝炎・肝臓がんからの食道がんが死因だ。
父はとっても変った人で、一番の違いは全身に入れ墨があることだった。
そのため、夏でも長袖の下着が欠かせず、温泉やスーパー銭湯へ行けないとよく嘆いていた。
私が生まれた頃には既に、父には入れ墨があった。
だから逆に不思議にも思わなかった。
父は酒に酔い、よく私に話した。
「東京にいた頃はヤクザだったのだ」と。
私が記憶している父のいちばん長い職業は、普通に会社員だ。
幼少の頃はよく覚えていないが、確かに家に居なかった気がする。
バーテンダーやクラブの雇われ支配人など、夜の世界で生きていたらしい。
そのため、兄が私の面倒をみていたのだと思う。
小学生の中学年のころも、よく兄と一緒に深夜番組をみていたので、父はやっぱりあんまり家に居なかったのだろう。
父がよく家にいるようになったのは、小学校の高学年になってからだ。
冠婚葬祭業の地元ではまあまあ有名な会社に勤め始めた。
というのも“アニキ”と慕う人物に騙されて、大きな借金をこさえてしまい、真っ当に生きようと思ったのだろう。
父には虚言癖がある。
兄はよく話してくれた。
私が生まれる前。兄がまだ小学校に上がる前の幼い頃の話だ。
突然、父に両肩を掴まれ、「パパは癌だから、あと2年で死ぬ」と言ったらしい。
しかしその3年後くらいに私が生まれ、24歳に父を亡くしているので、この癌宣言は虚言だ。
そんなわけで常日頃うそぶいており、何を真に受けていいのかさっぱり分らなかったのだが、昔話はよくした。
・新潟の山奥に本家があって、もともと武家の血筋で、本来家を継ぐはずだったが、母が芸子上がりで親戚からの風当たりが強く縁を切って上京した
・祖父はロシア人でクオーターである
・東京ではヤクザだった
・関西人が嫌い
・日本大学経済学部を中退した
・宛もなく電車に乗り、海がきれいで茨城で途中下車し、母と出会った
・まわりの反対を押切り、駆け落ちした
「ロシア人とのクオーター」は武家の話と繋がらないし、19才で母と結婚したことを考えると大学に入ったことさえ怪しいと思っていたが、どうやら父は会社の面接でも「最終学歴:日本大学経済学部」と宣ったらしく、入社10年して嘘がばれ、会社をクビになった。
そこからの再就職は当然ながら難しく、酒に逃げ、緩やかな自殺のような選択をしたことは想像に易い。
もともとそんなに心臓に毛の生えたタイプの人ではなかったのだ。
悪くもなりきれず、ものごとを割り切れない不器用な人だったと思う。
未練がましくて、嘘ばかりで、その嘘で苦しむ悲しい人だ。
しかしどんなに嫌っても血縁と言うものは怖い。
私にも、父に似てるところはたくさんある。
顔も、性格も、ふとしたところが似ていて、怖く思う時がある。
手首から背中、両胸、太ももあたりまで。
びっしりと入れ墨に覆われていた父の身体。
だけど、一部分「お金がなくて完成できなかった」という未完な部分があった。
小学生の頃だっただろうか。
ある夜、突然割り箸の先に縫い針をたくさん括り付け、胸にある龍の絵柄の目を入れろと言われたことがある。
「どうせ怖がって躊躇するだろう」という気持ちで指示しているのが透けて見え、
ムカついたので躊躇なく刺したが、縫い針に墨汁をつけて刺したってほとんど色が入らず、うろたえたような表情の龍になった。
話が脱線した。
会社勤めをしていたとき、どんなに猛暑でも長袖の下着と長袖のシャツが欠かせなかった。
それが本当に滑稽でバカらしいと思っていた。
後悔するくらいの気持ちで一生消えない入れ墨なんか入れんなよ、と。
私も油断したら、ああなってしまうのかもと怖かった。
私も胸に小さな入れ墨を入れている。
これは、この入れ墨が自分の負担になるような人生を歩まないと決めた、暑苦しいお守りだ。
消すことができない父という存在を、自分なりに飲み込もうと思ったのかもしれない。
理不尽なことばかりの昼ドラのようなドラ親父でずいぶん反発し、非難してきたが、さすがに没してからはイヤな感情は薄れ、生ぬるい思い出として数々のバトルを思い起こす。
自分の胸の入れ墨さえ、忘れてることが多いくらいだ。
話は今年の正月に戻る。
お正月はぼんやりしてるのがいい。
幸いまだ嫁にいっていないので、なるべく実家に帰り年を越す。
元日はひたすらテレビを見て、2日は兄家族が来て、3日、4日……。
流石にヒマに感じたので、母と二人で科学博物館に行った。
旧式のプラネタリウムを見上げ、イエローナイフでみた星空がプラネタリウムを勝っていたことに驚いた。
そんな科学博物館の喫茶店で、母と休憩していたときのことだ。
とうとう、私は新潟で暮らしていた時間より、東京で暮らしている時間の方が長くなってしまった、というような話題だったかもしれない。
そこから、母が「昔、東京で働いていたことがある」というというので、改めて母の職歴を聞いてみた。
そういえば、私が知っているのは、「父と茨城(母の生まれ故郷)の喫茶店(母の職場)で出会った」ところからだ。
中学を卒業し、集団就職で川崎あたりのぬいぐるみ工場で半年ほど働いて、辞めて茨城に帰り、また上京してまた帰り……というのを繰り返したらしい。
なんでそんな半年くらいで仕事を辞めてしまったのか、仕事がいやでも東京に留まらなかったのか聞くと
「ホームシックだったのかもね〜」
と言った。
「それで職場(喫茶店)に来た父と出会って、駆け落ちして、こんなに長く新潟で暮らすなんて不思議な人生だね」
と私が言うと
「駆け落ちじゃないよ、別に」
と母が言った。
えっ!?
私は記憶していた父と母とのなれそめを話した。
父の出生については眉唾物だが、東京でヤクザなことをしていた父が、東京にいられなくなり、茨城で母に出会って、周りに反対されて、新潟に駆け落ちして来たっていうのは……。
「うそつきな男だねー。別にヤクザじゃなかった。入れ墨は茨城で入れたんだよ。」
ええええ!?
父の半生を振り返るのはこれが初めてじゃなかった。
父が亡くなった時、改めて父の半生について母に聞いたことがある。
しっかり書き留めて、ブログにも転載した。(当時はテキストサイトに載せた)
その時、母にもしっかり内容を確認してもらったはず。
……いや、今読み返して見ると確かになれそめのことや入れ墨のことには付言してない。
そうだ、当時イラストレーターとして事務所に所属しており、タレントのような売り方をしようとしていた時期だったから自粛して書かなかったんだ。(その翌々年くらいには事務所の社長と大げんかして、今の私があるわけだが)
「それに新潟行きはママがそそのかしたようなところがあって、茨城でつるんでいる悪い友達と縁を切らせたかった。その友達が掘師で。それに当時は日本海側はとても遠い所な気がしていたから、行ってみたかったんだよね」
と母。
いやびっくり。
没後13年してもまだ父の嘘にだまされてたわ。
疑いようもなく信じきってた。
でも母の話を聞いて行くと、当時(父が亡くなった時)に聞いた話しと食い違うところもあったりして、もう、何が真実なのやら。
考えるのがバカバカしくなった。
過去の真実なんてどうでも良い。
思い出に残っている記憶だけが、現在の真実だ。
今の母の頭の中にある思い出だけが事実でいい。
ああ、でも本当にビックリしちゃったよ。
うちの両親はずーっと駆け落ちだと、思っていたんだから。
それにきっとチンピラに毛が生えた程度だろうけど、父はヤクザだったのだと信じていたよ。
身近なようで全然知らない。
どうでもいいけど、無視できない。
切っても切れない血族の歴史。
もう没してしまった父のことはもちろん、母の中の記憶や母自身のことも、きっと解る日は来ないんだろうなと思った。
脳みその中のことは分らない。
だけど、家族って不思議だなぁ。
こんなに長い間、没したあとも騙しやがってあのクソ親父。
いやしかし、カタギで良かった。
動画は正月にカメラの説明を兄家族にしてる時に撮った、オチも何にもないもの。
なんでもない日常の映像だけど、家族の頭の中にインプットされている思い出は、バラバラなんだろうな。
- コメント
- 楽しんでもらえたのなら幸いです。
-
- コヤナギユウ
- 2014.03.28 Friday 14:48
- 最後まで読んでしまいました。
-
- wato
- 2014.03.27 Thursday 12:43
- コメントする
この記事に対するフィードバック
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- コヤナギ ユウ YU KOYANAGI
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Yu Koyanagi:Graphic Designer, Illustrator, Editor, Blogger
twitter. @KoyanagiYu・instagram.com/koyanagiyu/
The chief editor for Tokyo Nylon Girls.(http://nylongirls.jp/) The world Chengdu panda ambassador semi-finalist (2012). Special knowledge in Shinto culture.(I have license for Shito knowledge test!) Love coffee and chocolate. (I don't drink alcohol unfortunately)
コヤナギユウ
デザイナー、イラストレーター、エディター。
yours-store代表、東京ナイロンガールズ編集長。77年新潟生まれ。生クリームとマヨネーズが苦手で英語が不自由。コーヒーとチョコレートが好きな、神社検定3級、世界成都パンダ大使セミファイナリスト、カナダ観光局公認ブロガー観光大使。 >>くわしく - @KoyanagiYuさんのツイート